「知の冒険」カテゴリーアーカイブ

ヤノマミ~奥アマゾン 原初の森に生きる~ (Yanomami)

ヤノマミ(Yanomami)はブラジルとベネズエラの間に広がるアマゾンの森の中に住む先住民で、推定2万5千人~3万人いると言われています。彼らは30人から200人で一つのグループを形成して、アマゾンの森に暮らしているそうです。
NHKは2007年11月~2008年11月の間に150日間、このヤノマミとともに暮らして、彼らの生活や文化を取材し、ドキュメンタリー番組を作りました。
●取材期間
回目2007年11月(15日間)
2回目2008年1月(60日間)
3回目2008年7月(50日間)
4回目2008年11月(25日間)
そして、2009年2月26日(ハイビジョン特集)、2009年4月12日(NHKスペシャル)「ヤノマミ~奥アマゾン 原初の森に生きる~」という番組が放送されました。
しかし、僕が初めてヤノマミを見たのは2009年が終わろうとしている頃、偶然、再放送を途中から見たときでした。そして衝撃を受けました。一番衝撃を受けた場面は、ヤノマミの出産です。出産のとき、女性は森に消えていきます。森で、ひとりで子どもを産むのですが…
ネタばれになるので、興味がある方はDVDでご覧いただいたほうが良いと思います。ただ、僕は彼らの出産を通して、彼らの死生観を知り、驚いたのでした。いわゆる文明社会に住んでいる我々とはまったく違う死生観、文化で生きている彼らを見て、驚きました。
そして、彼らの文化に興味を持ちました。もっと彼らのことを知りたいと思いました。社会学や人類学という学問に関わっているせいなのか、あるいは、こうやって人や文化に興味をもっているから、社会学や人類学をやっているのか・・・ たぶん後者が僕の真実だと思いますが、とにかく、ヤノマミの文化についてもっと知りたいと思いました。
番組を途中から見始めた僕は、NHKにDVD発売予定はないのか、再放送予定はないのかと問い合わせました。その時点では、何の予定もないという回答を得ただけでした。
2010年になって、この番組のディレクター国文拓氏が書いた「ヤノマミ」という本を見つけて購入しました。そして、最近になって、劇場版DVDも発見して、やっと、ヤノマミの生活を見ることができました。
これはテレビ番組である以上、ディレクターの「演出」というフィルターがあることを認識して見ていかなければなりません。たぶん、膨大なビデオテープの中から、この番組の映像が選ばれて編集されたのだと思いますが、ディレクターという職業の人と人類学者では、映像を選ぶ基準が違うだろうと思うのです。それでも、この番組が衝撃を与えてくれていた理由は、日本という社会でテレビ放送できるギリギリの映像を見せるという冒険をしてくれていたからだと思います。
言い換えると、見る人によっては、とてもショックを受けてしまうようなヤノマミの文化が映し出されているということです。人間も動物なのだと再認識させられたり、人間だからこその死生観なのだろうけれど、我々の社会では絶対に許されないだろうと思われる光景を見ることになるのです。
ヤノマミ… 誰にでもオススメはしませんが、偏見を持たず、原初の生活とはどういうことなのかを受けとめられる方には、見ていただきたい映像です。

死ぬまでちゃんと生きる

「立花隆 思索ドキュメントがん 生と死の謎に挑む」

NHK:11月23日放送

立花隆さんがご自分の病気をきっかけに、がん研究の現状を追っていくドキュメントでした。

立花さんが「なぜ、これほど多くの科学者が研究しているにもかかわらず、がんを制圧できないのか」という疑問をもって、世界中の有名ながん研究者にインタビューしているうちに、がんは生命の根幹と深く、複雑に結びついているということを知っていく話でした。

 中でも、がん細胞と根幹細胞が非常に似ているという話に興味を持ちました。人の皮膚から初めてips細胞を作ったことで有名な京都大学の山中教授が、ips細胞とがん細胞が同じものの裏表のように似ていると言っていたことが、とても印象に残りました。

結局、人間の生命についての研究がさらに進んでいけば、がん細胞がなぜ暴走しているのか、もっとよくわかってくるんでしょうね。そしてその治療法も見えてくるでしょうし、ips細胞も活用できる時代がくるんでしょう。でも、それは今から数十年後か、100年後か…。

 人は必ず死ぬわけですから、大切なことは、死ぬまでの時間をどう過ごすかということだと思います。その時がいつ訪れるかわからない。だからこそ、今を大切に生きなければいけないんだと思います。

 

 

 

海図

海図

この写真、なんだかおわかりですか?
地図?
地面の場合には地図なんですが、これは海の図面なので「海図(かいず)」です。
厳密に言うと、この写真には「練習用海図200号」と呼ばれているものの上に、ディバイダーという製図用具がのっているのが写っています。「練習用海図200号」は、日本で船舶操縦の勉強をするときに使われている海図で、この200号の他に150号も有名です。
海図には船が航行するために必要となる情報が盛り込まれています。
海の深さ、暗礁や沈没船の場所、灯台の光り方などが記号化されて記されています。
船を航行中、この地図とコンパスを使うことで、自分の船の位置を割り出したり、潮の流れの方向や速度を割り出したりできる、かなり優れモノの道具なんです。
実は、僕は小型船舶操縦免許1級(特殊特定)を持っています。
でも、ペーパー・キャプテンです。
ペーパー・キャプテンを目指しているわけではないですが、レジャー・ボートはレンタルするだけでも、かなりの費用がかかります。ぜひ、レジャー・ボートを持っている友だちを作りたいと思っています(笑)が、世の中、そんなに簡単ではないので、今は、ボートに乗れるチャンスが来る日を待っています。
しかし、免許を取るときに操縦の練習をしたり、実技試験を受けたりして、少しは操縦経験はあります。
そのとき、船の操縦と自動車の運転が大きく違うことを感じました。僕たちが自動車を運転するときには、ふつうは道路を走ります。しかし、海や湖の上には道路はないのです。つまり、船を操縦するというのは、自分で進む道を作っていかなければなりません。そして、他船のキャプテンも独自の進路を決めて操船しているわけですが、それは僕にはわからないのです。
そのため、船の場合、お互いの進路の関係によっては、相手の進路を妨害しないように航行する(避航する)行動が要求されます。
小型船舶操縦免許をとって、船舶操縦と(おそらく航空機も)自動車運転には、認知科学的な大きな違いがあるだろうということがわかりました。また、船舶は自然の影響をとても強く受ける乗り物で、自然をより身近に感じる乗り物であるということもわかりました。
基本的には、ペーパーキャプテンな僕ですが、いつか、クルージングに出たいと思っています。

文章を書くテクニック

このブログはタイのことを中心として書いていますが、実は僕がタイに興味を持ったのは、比較的最近のことです。タイ好きになる前は、かなりのアメリカ好き、英語の勉強好き、でした。高校3年生の7月(何年前かはあえて言いませんが、かなり前のことです。)、僕は高校交換留学生として、アメリカのフロリダ州にあるFort Walton Beachという町に行きました。そして、そこで1年間アメリカ人の家庭にホームステイしたのでした。
ここに紹介するThe Elements of Style(William Strunk, Jr., E.B. White著)は、簡潔でわかりやすい英文を書くための基本ルールが書かれている本で、その留学中に買ったものです。僕が持っているのは第2版ですが、現在は第4版を入手することができます。
これは英語の書き方の本ですから、仕事や学校で英語を使って文章を書く必要がある人にお薦めしたいのはもちろんですが、この本に出てくる書き方のルールは英語特有のものだけでなく、日本語の文章を書くときにも参考になるものが多いので、簡潔な文章を書きたい人すべてにお薦めします。

想像の共同体


日本に戻ってきたので、タイの話だけを書こうとすると、ついつい更新(厳密には「新しい書き込み」ですね)が滞ってしまいます。そこで、今日は珍しく(?)ちょっとまじめな話を書いてみたいと思います。
4月22日~23日、早稲田大学で『グローバリゼーションと現代アジア』というテーマでシンポジウムが開催されました。このシンポジウムは早稲田大学の21COE-CAS21COE-GLOPEの共催です。COEというのは”Center of Excellence”(『卓越した研究拠点』)のことで、文部科学省が2002年から始めた補助金制度のことです。(COEプログラムについては、日本学術振興会の『21世紀COEプログラム』のページを参照してください。)
とにかく、今回のシンポジウムのポイントは、コーネル大学のベネディクト・アンダーソン教授(Professor Benedict Anderson)を招いているということです。アンダーソン教授と言えば、”“Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism”“(邦訳『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』)という本がとても有名で、ナショナリズム研究の第一人者と言った存在と言えるでしょう。しかし、22日の基調講演の中で、アンダーソン教授は、この本を自分の娘にたとえて、出版したときから自分の手から離れて、ポスト・ストラクチャリズムやポスト・モダニズム、あるいはカルチュラル・スタディーズという名の男とどこかに行ってしまったと語っていました。自分の意図したもの(教授はこの本は明らかにマルクス構造主義だと考えているそうです)とは違ったものとして他の人々に受けとめられ、そのような視点からの批判も受けることになったという話でした。
僕がこの本と出会ったのは、もうかなり昔のこと、大学院の教育哲学の授業の中でした。アンダーソン教授の講演があると知って、”“Imagined Communities”“をもう一度読もうと思い、この2週間、持ち歩いていたのですが、結局、あまり読めませんでした。本を開くと、ラインマーカーや鉛筆の書き込みがあって「昔は勉強したんだなぁ~」と、シミジミしますが(笑)、もう脳が弱っていて難しい英語にはついていけないのかも知れないとガックリきました。
それでも、もう一度、この本を読み返したいと思う、もう一つの理由があります。それは、最近の中国や韓国で活発になっている政治的運動を通して見られるナショナリズムを見るとき、一方ではグローバリゼーションによって、人、モノ、情報が簡単に国境を越える時代のナショナル・アイデンティティの意味を考えてみたいからです。